2005年07月10日

ランドセルのころ〜中谷健太郎さん〜

村付き合いで礼儀をつくした「地域を豊かに生かす」のリード文の新聞の切抜きを目にした。
もう5年は経っている。
「小学校の通信簿には”学業優秀なれど積極性に欠ける”でした。」と話す中谷健太郎さん 
 うーん変われば変わるもんだ(私の独り言)



「農村にいながら農家でない。異人種のような感覚がありました」。湯布院町を全国の注目を集めるリゾート温泉地に導いた町づくりのリーダーで旅館経営者の中谷健太郎さんの小学校時代は戦争の最中。

当時農村の湯布院では、祖父の代から始めた旅館業は「道楽」とみられ肩身が狭かった。「弁当の中身はぎんしゃりだけ。死にかけた人が食べられるぜいたくな食事なんですが、農家じゃないからおかずがない。米しか食べるものがなかったんです。変な子に見られていたと思います。」

なんとか胸を張りたいと思い、級長になることを考えた。「級長は天皇陛下から繋がった立場でしたからね。二年生になって思いを遂げました。」一方で、礼を尽くす人への村社会の対応の誠実さを感じていたらしい。「戦地に赴いて不在だった父親代わりに村の付き合いを任されました。

葬儀で『おばあさんがよくなかったそうで』などとお悔やみの言い方でちゃんとものを言うと、おとぎのご飯が出て、小学生でも家の代表として村の構成員扱いをしてくれましたからね」

こうした村での“よそ者”体験が中谷さんの自由な発想の基盤をつくったようだ。もともとは映画監督になるつもりだった。しかし、父の死で、勤務先の東京の東宝映画撮影所から1962年に帰省。一時のつもりが、結局家業を継ぐことに。

「『変な子』だった小さい頃を知る人たちが生意気盛りの私を迎えてくれた。やっぱりあいつは違うという感じがあったからでしょうか」中谷さんはその仲間たちと高度成長期の真っ只中、あえてひなびた良さを打ち出して湯布院の売り出しに乗り出す。映画祭や音楽祭、さらに地元の風土や農産物を生かしたイベントを次々に展開、地域おこしのフロントランナーになっていく。

企画の中に小学生の体験が基になっているものがいくつかあるという。例えば「牛喰い絶叫大会」。「さんさんと日が照る中、村を取り巻く山の頂から“先生のバカタレー”ってよく言ってたんです。山びこが気持ちよく返ってくるんです。盆地ならではの遊びです」。生い立ちと地域の資源を豊かに生かしている人である。

※写真は健太郎さんご自宅
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Posted by Qさん 大魔人 at 16:13│Comments(0)大魔神の思い
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