2007年10月21日

認知症サポーター講座

11月3日・4日 静岡文化芸術大学で「認知症サポーター講座」があります。
友人が所属しているパワー浜松ロータリークラブの開催です。
当日は文芸大学の学園祭でもあります。

拙者の母は間もなく85歳になります。
とても他人事ではないので受講したいのですが、
本業の国民文化祭視察で徳島県に行っており残念ながら
叶いません。

朝晩の冷え込みが気になってまいりました。
くれぐれも風邪を召されませんように。

溝口久  


Posted by Qさん 大魔人 at 23:46お知らせ・イベント

2007年10月21日

認知症サポーター講座

11月3日・4日 静岡文化芸術大学で「認知症サポーター講座」があります。
友人が所属しているパワー浜松ロータリークラブの開催です。
当日は文芸大学の学園祭でもあります。

拙者の母は間もなく85歳になります。
とても他人事ではないので受講したいのですが、
本業の国民文化祭視察で徳島県に行っており残念ながら
叶いません。

朝晩の冷え込みが気になってまいりました。
くれぐれも風邪を召されませんように。

溝口久  


Posted by Qさん 大魔人 at 23:46お知らせ・イベント

2007年10月19日

全国まちづくりフォーラム(その2)

今回はどうもやり方が違う。
8年前は生みの苦しみを味わった企画に、
それに合うように観光協会事務局、そして早川町にある上流文化圏
研究所の研究員である当時早大大学院後藤研究室の鞍内氏他学生
らが会場の設営・運営に汗を流した。
地元の方々も、もちろん役場も、宮崎県五ヶ瀬町、北海道ニセコ町で
開催したものに劣らぬものをとムラの力を結集した。
今は廃校になった北小学校体育館を一週間掛けてムラのデザインをした。



今回の相談があった時には企画はほぼ固まり、拙者は4つある分科会
(全国事例発表と討議)の内「みどりの分科会」を担当することが決まっていた。
環境をいかに守り育てるか〜水とみどりの凍結保存から活用保全への
道筋を探る〜といったたいそうな副題が付いていた。何をやればいいのか?
と尋ねても答えられる者無し、全国事例発表となればゲストを呼びたいが
その旅費や謝金はあるのか?回答無し。

こりゃあ、自分で全てを企画し、事例発表者も集め、場合によっては
分科会参加者も自分で集めよということかぁー。
「2.5時間をコーディネーターが自由にデザインする。これは、オモロイ」
コーディネーターにそこまでさせるのが、本フォーラムのやり方だった。



さて、初日9月7日は川根本町お宝探検ツー。3つのコースが用意されていた。
拙者は「大札山周辺ハイキングコース」を選択。
大札山のツアーガイドは地元の製材屋の肝っ玉おばちゃん小澤節子さん、
この「せっちゃん」から山登り前に「中川根ふる里通信」第83,84号をいただいた。
創刊が昭和61年4月20日、平凡パンチはとうに無いが、この通信は20年余続いている。


写真、手書きの原稿を光沢紙に印刷した16頁にもなるしっかりとした新聞である。
第84号には台風4号の大井川大洪水の太文字に、長島ダムの1500立米/秒放流
の写真を表紙に、6〜12頁の特集「南太平洋の戦い」、元海軍飛行兵曹長 諸田君平氏が

昭和49年に書いた手記を転記している。
当時十代の諸田少年の戦記には「ソロモンの激戦、バラレ島の敵夜襲、印度・カルカッタ攻撃、
玉砕のグァム島より奇跡の生還」とあった。

そのタダモンのではない“せっちゃん”の案内で大札山に登ると、頂上では南アルプス臨み、
雲に隠れがちであるが富士山の稜線がわかる。
1月にアキレス腱を切断した我が脚は完全とは言えず下山時には苦労した。
道中のシャラの木の木肌が美しい、ぶなの木は葉が上を向き、
降った雨を葉から枝そして幹を伝わり、水を根元に集めやすい構造になっている。
このために根張りはそれほど広くないなどと“せっちゃん”の講釈を聞きながらの登山であった。

※写真は登山した大札山とそこに住む蛙
(つづく)  


Posted by Qさん 大魔人 at 00:13大魔神の思い

2007年10月19日

全国まちづくりフォーラム(その2)

今回はどうもやり方が違う。
8年前は生みの苦しみを味わった企画に、
それに合うように観光協会事務局、そして早川町にある上流文化圏
研究所の研究員である当時早大大学院後藤研究室の鞍内氏他学生
らが会場の設営・運営に汗を流した。
地元の方々も、もちろん役場も、宮崎県五ヶ瀬町、北海道ニセコ町で
開催したものに劣らぬものをとムラの力を結集した。
今は廃校になった北小学校体育館を一週間掛けてムラのデザインをした。



今回の相談があった時には企画はほぼ固まり、拙者は4つある分科会
(全国事例発表と討議)の内「みどりの分科会」を担当することが決まっていた。
環境をいかに守り育てるか〜水とみどりの凍結保存から活用保全への
道筋を探る〜といったたいそうな副題が付いていた。何をやればいいのか?
と尋ねても答えられる者無し、全国事例発表となればゲストを呼びたいが
その旅費や謝金はあるのか?回答無し。

こりゃあ、自分で全てを企画し、事例発表者も集め、場合によっては
分科会参加者も自分で集めよということかぁー。
「2.5時間をコーディネーターが自由にデザインする。これは、オモロイ」
コーディネーターにそこまでさせるのが、本フォーラムのやり方だった。



さて、初日9月7日は川根本町お宝探検ツー。3つのコースが用意されていた。
拙者は「大札山周辺ハイキングコース」を選択。
大札山のツアーガイドは地元の製材屋の肝っ玉おばちゃん小澤節子さん、
この「せっちゃん」から山登り前に「中川根ふる里通信」第83,84号をいただいた。
創刊が昭和61年4月20日、平凡パンチはとうに無いが、この通信は20年余続いている。


写真、手書きの原稿を光沢紙に印刷した16頁にもなるしっかりとした新聞である。
第84号には台風4号の大井川大洪水の太文字に、長島ダムの1500立米/秒放流
の写真を表紙に、6〜12頁の特集「南太平洋の戦い」、元海軍飛行兵曹長 諸田君平氏が

昭和49年に書いた手記を転記している。
当時十代の諸田少年の戦記には「ソロモンの激戦、バラレ島の敵夜襲、印度・カルカッタ攻撃、
玉砕のグァム島より奇跡の生還」とあった。

そのタダモンのではない“せっちゃん”の案内で大札山に登ると、頂上では南アルプス臨み、
雲に隠れがちであるが富士山の稜線がわかる。
1月にアキレス腱を切断した我が脚は完全とは言えず下山時には苦労した。
道中のシャラの木の木肌が美しい、ぶなの木は葉が上を向き、
降った雨を葉から枝そして幹を伝わり、水を根元に集めやすい構造になっている。
このために根張りはそれほど広くないなどと“せっちゃん”の講釈を聞きながらの登山であった。

※写真は登山した大札山とそこに住む蛙
(つづく)  


Posted by Qさん 大魔人 at 00:13大魔神の思い

2007年10月16日

第1回やらまいかミュージックフェスティバル(その2)

重くなった気持ちで、とぼとぼとミュージックフェスティバルのお目当ての会場
ライブハウス「浜松FORCE」に向かった。ここはロック(大音量)会場だ。

いつも夜状態の真っ暗な部屋は防音と換気がゆき届いていた。
そこがハードロック・ヘビーメ タルの大音量で満たされる。
ベースの重低音が体を痺れさせる。聴くというより体で感じるのだ。

登場のグループ名は「ジャパメタ保存会」。ヘビメタはもはや絶滅危惧音楽種に
なっている。
最近人気のロックはミスターチルドレン、ポルノグラフィーに代表されるように
ロック・J−POPなのだろう。
当然、お客も演奏者も70年代ロックに目いっぱいはまっていた中年ロッカーが中心だ。

今時ロックの爽やかさではなく、ジミー・ヘンドリックスもどきの長髪に暑苦しさを感じ
つつも、皆が往時のわが姿を呼び起こしながら体をドラムの音にあわせていた。


ロック(大音量)会場を後に次なる会場にと向かうとそこには、我が家で開催
の「ボサノバ蕎麦会」で演奏してくれる成田さんが、MASHというグループ名でサ
イモンとガーファンクルをやっている。先のヘビメタの“こてこてサウンド”とは
一変、アコースティック一本とハーモニーで勝負だ。次回は「サイモン蕎麦会」
にしようかな。

いくつものステージを渡り歩きながら、夕闇迫る頃、吉田拓郎をコピーする
“みつバンド”を聴いた。ボーカル“みつ”よくよく見ると沼津高専柔道部の二年後輩の
毛涯ではないか!何が“みつ”かえーと茶化しつつも、なかなかいけている。柔道
は弱かったけど、歌声はいい。市内に住んでいるとのことなので、彼を呼んでの
「拓郎蕎麦会」も良さそうだ。



締めは、やっぱりロック(大音量)会場へ。タウンタウンフキウキハント、
例 のつなぎにサングラスの5人組。
浜松弁で歌う「港のヨーコ横浜はままつ」♪あんたあの子の何ダラー?
♪新宿・原宿・向宿、六間道路でロッケンロール(向宿、六間道路は浜松にある)

みんなノリノリで秋の夜は更けて行った。
来年の第2回に期待したい。静岡の大道芸をしのごうじゃないか、
やらまいか浜松のスピリッツで。(おしまい)

※写真はタウンタウンフキウキハント、みつバンド、
ヤマハビル1階開口が外に開いてのステージ  


Posted by Qさん 大魔人 at 23:15大魔神の思い

2007年10月16日

第1回やらまいかミュージックフェスティバル(その2)

重くなった気持ちで、とぼとぼとミュージックフェスティバルのお目当ての会場
ライブハウス「浜松FORCE」に向かった。ここはロック(大音量)会場だ。

いつも夜状態の真っ暗な部屋は防音と換気がゆき届いていた。
そこがハードロック・ヘビーメ タルの大音量で満たされる。
ベースの重低音が体を痺れさせる。聴くというより体で感じるのだ。

登場のグループ名は「ジャパメタ保存会」。ヘビメタはもはや絶滅危惧音楽種に
なっている。
最近人気のロックはミスターチルドレン、ポルノグラフィーに代表されるように
ロック・J−POPなのだろう。
当然、お客も演奏者も70年代ロックに目いっぱいはまっていた中年ロッカーが中心だ。

今時ロックの爽やかさではなく、ジミー・ヘンドリックスもどきの長髪に暑苦しさを感じ
つつも、皆が往時のわが姿を呼び起こしながら体をドラムの音にあわせていた。


ロック(大音量)会場を後に次なる会場にと向かうとそこには、我が家で開催
の「ボサノバ蕎麦会」で演奏してくれる成田さんが、MASHというグループ名でサ
イモンとガーファンクルをやっている。先のヘビメタの“こてこてサウンド”とは
一変、アコースティック一本とハーモニーで勝負だ。次回は「サイモン蕎麦会」
にしようかな。

いくつものステージを渡り歩きながら、夕闇迫る頃、吉田拓郎をコピーする
“みつバンド”を聴いた。ボーカル“みつ”よくよく見ると沼津高専柔道部の二年後輩の
毛涯ではないか!何が“みつ”かえーと茶化しつつも、なかなかいけている。柔道
は弱かったけど、歌声はいい。市内に住んでいるとのことなので、彼を呼んでの
「拓郎蕎麦会」も良さそうだ。



締めは、やっぱりロック(大音量)会場へ。タウンタウンフキウキハント、
例 のつなぎにサングラスの5人組。
浜松弁で歌う「港のヨーコ横浜はままつ」♪あんたあの子の何ダラー?
♪新宿・原宿・向宿、六間道路でロッケンロール(向宿、六間道路は浜松にある)

みんなノリノリで秋の夜は更けて行った。
来年の第2回に期待したい。静岡の大道芸をしのごうじゃないか、
やらまいか浜松のスピリッツで。(おしまい)

※写真はタウンタウンフキウキハント、みつバンド、
ヤマハビル1階開口が外に開いてのステージ  


Posted by Qさん 大魔人 at 23:15大魔神の思い

2007年10月15日

第1回やらまいかミュージックフェスティバルIN浜松(その1)

拙者が住む浜松市は、楽器を作るばかりの街から、音楽が街にあふれる
音楽のまちづくりを進めている。
ことが始まったのは浜松駅そばに3000人と1500人が入る大中ホールを持った
アクトシティーができた平成6年からかと思う。

今では国際ピアノコンクール、世界青少年合唱祭、吹奏楽甲子園、浜名湖畔
フォークジャンボリー、国際オペラコンクール、JAZZウィーク、オルガンフェスティバル、
普段の街角コンサートなど音楽イベントが年中ある。楽器博物館もあり、
その気になれば“いつでも音楽”になった。

だが、拙者の好きなロックは無い。
そこに彗星のように現れた「第1回やらまいかミュージックフェスティバルIN浜松」。

(やらまいか=Let’s do it.)
プロアマ問わずロック、ポップス、アコースティックを街中いたるところのステージ
でやろうというもの。
出演者募集には当初の予定の倍を越す218団体1183人の申込みがあったという、
そこから132の個人・団体が街中15箇所のステージに演出するというのだ。
手元のガイドブックを見ると90ページ中半分が企業スポンサーそして個人名・個人
商店名が名を連ねている。1300人を超す協力があっての開催とガイドブックに書かれている。

10月14日(日)雨を心配しながらの曇り空の元、ミュージックフェスがスタートを切った。
15に及ぶ会場それぞれにオレンジ色のジャンパーを羽織ったスタッフが迎えてくれた。


午前中、同時開催の浜松映画祭最終日で拙者は「めぐみ」を見ていた。拉致問題解決

に奔走する横田さんご夫妻の記録が中心となっており、めぐみさん失踪から30年の歴史

を一部であれ知ることができたことの意味は大きかった。
正義であれ闘うことの険しさをここでも目の当たりにした。
この映画なんとアメリカ人が監督である。
こうした興業に乗りにくいドキュメンタリー映画を地方都市で見ることは殆ど無理である。
由布院には文化記録映画祭があり年一度ではあるが、たっぷりドキュメンタリー映画
に触れることができる。浜松映画祭でも積極的に上映して分野である。(つづく)

溝口久  


Posted by Qさん 大魔人 at 09:49大魔神の思い

2007年10月15日

第1回やらまいかミュージックフェスティバルIN浜松(その1)

拙者が住む浜松市は、楽器を作るばかりの街から、音楽が街にあふれる
音楽のまちづくりを進めている。
ことが始まったのは浜松駅そばに3000人と1500人が入る大中ホールを持った
アクトシティーができた平成6年からかと思う。

今では国際ピアノコンクール、世界青少年合唱祭、吹奏楽甲子園、浜名湖畔
フォークジャンボリー、国際オペラコンクール、JAZZウィーク、オルガンフェスティバル、
普段の街角コンサートなど音楽イベントが年中ある。楽器博物館もあり、
その気になれば“いつでも音楽”になった。

だが、拙者の好きなロックは無い。
そこに彗星のように現れた「第1回やらまいかミュージックフェスティバルIN浜松」。

(やらまいか=Let’s do it.)
プロアマ問わずロック、ポップス、アコースティックを街中いたるところのステージ
でやろうというもの。
出演者募集には当初の予定の倍を越す218団体1183人の申込みがあったという、
そこから132の個人・団体が街中15箇所のステージに演出するというのだ。
手元のガイドブックを見ると90ページ中半分が企業スポンサーそして個人名・個人
商店名が名を連ねている。1300人を超す協力があっての開催とガイドブックに書かれている。

10月14日(日)雨を心配しながらの曇り空の元、ミュージックフェスがスタートを切った。
15に及ぶ会場それぞれにオレンジ色のジャンパーを羽織ったスタッフが迎えてくれた。


午前中、同時開催の浜松映画祭最終日で拙者は「めぐみ」を見ていた。拉致問題解決

に奔走する横田さんご夫妻の記録が中心となっており、めぐみさん失踪から30年の歴史

を一部であれ知ることができたことの意味は大きかった。
正義であれ闘うことの険しさをここでも目の当たりにした。
この映画なんとアメリカ人が監督である。
こうした興業に乗りにくいドキュメンタリー映画を地方都市で見ることは殆ど無理である。
由布院には文化記録映画祭があり年一度ではあるが、たっぷりドキュメンタリー映画
に触れることができる。浜松映画祭でも積極的に上映して分野である。(つづく)

溝口久  


Posted by Qさん 大魔人 at 09:49大魔神の思い

2007年10月15日

全国まちづくりフォーラムin奥大井(その1)

 由布院から静岡県に戻り早十年が経とうとしている。
県内の温泉場のまちづくりに微力ながら加勢してきた。
今年初めは稲取温泉一色だった。夏からしばらくは寸
又峡温泉のある奥大井に肩入れしてゆきたい。

もっとも稲取は渡邊法子さんが観光協会事務局長に座り、
わずか半年で着地型観光会社を立ち上げ。
高速でまちづくりをやってのけているので、もう拙者の役目は終了したのだ。

由布院から戻って間もなく、寸又峡温泉のある当時の本川根町に
「日本上流文化圏会議の開催」を提案した。
戦後急激に進展した科学至上・経済優先の社会は、有史以来
人間の暮らしを支えてきた上流圏から下流部の都市圏へ、
水や資源そして人材を吸い取った。
都市文明による環境破壊が留まらない今、上流圏の価値と
役割を見直そうと、94年山梨県早川町で上流文化圏構想が提唱された。

それに共鳴した本川根町の町民と行政が協働して県内外から300人ほど
の人を集め、1999年夏、「1000年の学校IN南アルプス」を開催した。
その後「千年の学校」として地域学を学ぶ学校を開校し、地域力の
発掘・評価、学習と交流、まちづくりの担い手育成を狙った。

この上流文化圏会議の企画のために、仕事の合間を縫って、いそいそ
本川根町に通った。会議の後の寸又峡温泉でのひと時が、あまりに心地よかった。
それがボランティアの源だった。
それ以来8年ぶりの奥大井地区へ繁く足を運ぶことになった。
「日本上流文化圏特別会議2007」を川根本町が開催するというのだ。
かつての本川根町は隣の中川根町と合併し「川根本町」になった。
新町が発足して2年、再び上流文化圏構想の理念とビジョンを確認し、
日本の上流圏が誇りを取り戻し、更なる活力を生み出すために、
広く交流連携を図るというのがその趣旨だ。
  


Posted by Qさん 大魔人 at 09:47大魔神の思い

2007年10月15日

全国まちづくりフォーラムin奥大井(その1)

 由布院から静岡県に戻り早十年が経とうとしている。
県内の温泉場のまちづくりに微力ながら加勢してきた。
今年初めは稲取温泉一色だった。夏からしばらくは寸
又峡温泉のある奥大井に肩入れしてゆきたい。

もっとも稲取は渡邊法子さんが観光協会事務局長に座り、
わずか半年で着地型観光会社を立ち上げ。
高速でまちづくりをやってのけているので、もう拙者の役目は終了したのだ。

由布院から戻って間もなく、寸又峡温泉のある当時の本川根町に
「日本上流文化圏会議の開催」を提案した。
戦後急激に進展した科学至上・経済優先の社会は、有史以来
人間の暮らしを支えてきた上流圏から下流部の都市圏へ、
水や資源そして人材を吸い取った。
都市文明による環境破壊が留まらない今、上流圏の価値と
役割を見直そうと、94年山梨県早川町で上流文化圏構想が提唱された。

それに共鳴した本川根町の町民と行政が協働して県内外から300人ほど
の人を集め、1999年夏、「1000年の学校IN南アルプス」を開催した。
その後「千年の学校」として地域学を学ぶ学校を開校し、地域力の
発掘・評価、学習と交流、まちづくりの担い手育成を狙った。

この上流文化圏会議の企画のために、仕事の合間を縫って、いそいそ
本川根町に通った。会議の後の寸又峡温泉でのひと時が、あまりに心地よかった。
それがボランティアの源だった。
それ以来8年ぶりの奥大井地区へ繁く足を運ぶことになった。
「日本上流文化圏特別会議2007」を川根本町が開催するというのだ。
かつての本川根町は隣の中川根町と合併し「川根本町」になった。
新町が発足して2年、再び上流文化圏構想の理念とビジョンを確認し、
日本の上流圏が誇りを取り戻し、更なる活力を生み出すために、
広く交流連携を図るというのがその趣旨だ。
  


Posted by Qさん 大魔人 at 09:47大魔神の思い