2008年05月07日
金谷茶祭り(その2)
GW如何お過ごしでしょうか?
昨日、友人の神奈川県庁職員の案内で府中競馬場に行って来ました。
初の競馬体験でした。
競馬場は美しいですね。競馬新聞は当たりませんねぇ。
でも友人は100円が65,000円になりました。1,2,3位の順位を当てたのです。
1,2,3位にに入るであろう馬番を指定して、その中の順列を全て買うので
投資額は5,500円だったそうです。その内の一つなんですね。
小生は、全くのかな振りでした。あああ
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一方、通りは屋台道中として、各地域の六台の屋台が、練り歩いていた。
屋根の上に若者が腰に落下防止の紐を付け、屋根から飛び降りんばかりに
「もっと曳いて、もっと曳いて」掛け声と提灯を振り祭りを煽る。
茶祭りとは毛色が異なるなと感じたが、これには祭りの変遷がある。
昔から一番茶が終わると、お茶を仕事にする人たちが「ほいろあげ」
と称する慰労会をやっていた。そもそも焙炉(ほいろ:手もみ用の作業台)
の神に新茶を献じる感謝祭が始まりいわれている。
これを昭和27年に金谷茶の宣伝・拡販を目的に「金谷茶まつり」として立ち上げた。
そのきっかけは昭和25年に静岡市で開催された「全国茶業者大会」で
「九州でお茶祭りの計画があるそうだ。茶どころ静岡が先を越されてなるものか」
との声からとのこと。おっとり気味の静岡県人にしては珍しく即断即実行だった。
神事とは関係ない祭りごとゆえ、当時企画したものが、茶摘み衣装の女性達が
茶畑に向かう姿を再現した「街道名物・茶娘道中」であり、これが今も祭りの中心
となっている。これに「男達の出番も」と昭和62年に屋台を造って「屋台道中」の
誕生と相成り、今日に至る。これにより「全町を挙げての祭り」にしたというわけだ。
新茶のシーズンにやればと誰もが思うが、その頃は忙しすぎて祭りどころではない、
それが終わってからの慰労の祭りよりも、先取りが好きな日本人の気性にあってか
「ほんの走りの新茶」があるこの時期に開かれるようになっている。
「夏も近づく八十八夜・・・あれに見えるは茶摘じゃないか、茜根襷(あかねたすき)に管の笠」
の唄声が聞こえてくると茶娘1300人が、普段は人気のない商店街の道路を400mに渡り埋め尽くす。
1300人もうら若き娘がいるなんてことはないので、“元娘”も“これから娘”も、要は老いも若きも
そろいの茶摘装束で舞う。これはすごいの一言に尽きる。
55年前に興したイベントがスタイルを変え、広がっていく。GWにある「浜松祭り」もまさにその類だ。
5月末にあるゆふいん文化記録映画祭が10年、劇映画祭、音楽祭、牛喰い絶叫大会も30年を越す。
イベントが地域の文化を創り、気質までも変えていく。継続の意味は大きい、
今始めても決して遅くはない、何にでもスタートがあり、そこには大いなる目的がある。(おしまい)
溝口久
寸又峡まちづくり会議実行委員相談役 浜名湖えんため顧問
大魔人の旅他http://daimajin.eshizuoka.jp/
勤務:静岡県観光局観光振興室 静岡県の観光:http://kankou.pref.shizuoka.jp
富士山静岡空港開港:平成21年3月http://www.pref.shizuoka.jp/kuukou/contents/
はばたく静岡国文祭平成21年10/24〜11/8開催http://www.pref.shizuoka.jp/kokubunsai/index.html
Posted by Qさん 大魔人 at 01:22
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