2008年09月20日

由布院玉の湯会長の虫庭の宿(その1)

鹿児島県庁の友人の米盛さんから
「溝口薫平 由布院玉の湯会長の西日本新聞「聞き書きシリーズ:虫庭の宿」につきまして、課で同紙を講読していますので、
PDFファイル化して、皆さんに配信しようと思います。100回連載ということで、私の方が続くかどうか若干不安ですが ・・・やってみます。お楽しみに!」 とのありがたいメールが届きました。 これを皆様に転送します。 ***今の湯布院を由布岳の麓で起こった奇跡と言う人もいますが、「自分達の住む町をいい町にしよう」 という仲間達の素朴で熱い情熱の賜物なのです。***に唸ります。 手元に昭和61年日本リーダーズ協会が発行した「地域おこしの仕掛け人たち」があります。 第2章は「湯布院から生まれた一村一品運動」 五十嵐冨英著 です。 この中から湯布院が立ち上がっていく頃のことを抜粋して送ることにします。 池田内閣が全国13箇所を新産業都市にしてする閣議決定をしたのは、昭和38年7月12日のことである。 池田内閣はその3年前、「60年安保」の際の社会混乱の責任を取って退陣した岸内閣の後を受けて発足した。 内閣はスタートして間もなく、国民所得倍増計画を打ち出した。経済を7.2%ずつ成長させ、GDPを10年間で2倍に しようとするも
のである。これが高度成長の引き金となった。 池田内閣は、この政策を国土の均衡ある発展の中で開花させたいとの願望があった。 そのために太平洋ベルト地帯、特に東京湾・大阪湾に集中する産業を全国に分散させなければならない。 その分散する工場の受け皿となるのが、新産業都市であった。 各県をこの指定に向けしのぎを削った。44の候補地が上がり、数箇所の指定の予定が13箇所を指定することになった。 その内の一つが大分県の別府湾の鶴崎を中心とした「大分地区」だった。後に九州石油、昭和電工、新日鉄が進出することになる。 指定前に臨海工業地帯の造成は始まっていたが、指定の正式発表を受け別府湾沿岸には、喜びと来たの声が満ち溢れていた。 同じ頃、その喧騒が届かない大分県日田の山の中で、一組のカップルが誕生した。夫は梅木薫平さんと言い、日田市立博物館に 勤めていた。(つづく)



Posted by Qさん 大魔人 at 06:40

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由布院玉の湯会長の虫庭の宿(その1)