2021年10月06日

富士紡遺産復活物語(その9)


橋床より下部は全て新規鋼材を考えたが、実際には約60%もの部材を再利用することに成功した。

格点周りを除くほとんどの箇所を残したからだ。また、外観を自然に見せるために、新規鋼材との溶接継手を多く採用している。

 復原に使わなかった部材もそのままスクラップにするのは惜しい。なにせ明治39年当時の鉄材、

国内生産がままならないからドイツそして米国製の鉄材を使っている。それを活かしたい。

そこで大学・高専に声掛けしたところ、研究材料として使いたいとの声が上がった。

ならば、ここ小山の地に残す必要はない。旅してもらうことにした。森村橋の材料そしてその時代が拡がっていく、実に面白い。

昭和43年の補強部材は広場に設けたベンチ屋根のフレームとして残した。

ベンチは五脚、ここにも豊門公園のベンチ同様に寄附を求めた。20万円を寄附していただければ、お名前とメッセージを

書いたプレートを付ける仕掛けだ。富士紡の研究家でもある筒井滋賀大名誉教授、橋の袂に住む松本さん、

本事業を進めた込山前町長、そして四国加工機、IHIが賛同してくれた。1m×2mの説明版には架橋から復原の歴史、

この事業に寄附してくれた各社、携わった方々を掲載した。

そして、ここに4.2億円もの巨費を投じた森村橋復原事業を完了した。平成28年の企画から4年の歳月を経ての令和2年10月のことであった。

ことを興した込山町長も溝口まちづくり専門監もすでにその立場を去った後のことである。(おしまい)





Posted by Qさん 大魔人 at 14:53│Comments(0)
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