2021年10月06日
富士紡遺産復活物語(その5)


カフェ&レストランは「道の駅ふじおま」を運営する㈱ふじおやまと相談し厨房の整備をする
予定であったものが町長交代により撤回。そうでなければコロナ禍と言えども何かしらの
営業はあったかと思う。2階の歴史ギャラリーは相当に手間をかけた。
「富士紡進出にあたり功労のあった岩田蜂三郎に光を当てて欲しい」が込山町長のリクエストでもあった。
氏の命がけの地元説得が無くして富士紡の進出はなかった。水力組が紡績工場の適地として鉄道があり
水の豊富な小山に目を付け相談をしたのが蜂三郎だった。工場誘致で地域振興をなんて考える人は皆無、
江戸時代から殆ど変わることになく代を繋ぐことを至上とし、日々の農耕生活を営む村集団に蜂三郎が
いたことが、この町の奇跡といっても過言ではない。今にあっては内陸フロンティアを突き進めた込山町長
の存在も奇跡とも言える。言うことは誰でもできるかもしれない。氏は実現のために人材を外部に求めたことが大きい。
これとて相当な人脈と情熱がないとできぬこと。いつの時もまちづくりは人なのである。
ここの収蔵庫には富士紡からいただいた戦前からの資料が、資料室には昔の写真や図書が保管してある。
その中に永久保存と書かれた布袋があり、中には関東大震災の記録が入っていた。この時富士紡工場は倒壊、
全焼で壊滅だった。この被害状況はもとより、被災者の親御さんに宛てた通知文、見舞金のこと等、大変な状況が伝わってくる。
残念なことに、この時に震災前の貴重な資料が燃失してしまっている。それにしても明治時代に誕生した一企業の社内資料を
自治体が持ち、皆の目に触れる環境にあることが、この西洋館の2階の大きな価値なのである。(つづく)
Posted by Qさん 大魔人 at 14:45│Comments(0)