2021年10月09日
小山町セミナー2021.5.15~16(その1)


経営者は薛森唐氏、台湾人だ。慶応大学に留学したのちに、自動車会社への内定が出ていたのも関わらず、その時たまたま台湾の郭泰源が西武ライオンズに入団、ならば通訳が必要だろいうと西武にアタック。無事、就職。郭の世話を焼いた後にはプリンスホテルに移籍、外国人客の営業担当を19年間務めた。いつかは自分のホテルを持ちたいと、小山町にあった百円ライターで一世風靡した㈱東海の研修所を手に入れ、中国人の意識を研究しホテル仕様に特別な改装を施した。ロビーの広さでホテルの価値が決まると分析しロビーを広げた。日本の美術品を置いて記念撮影できるようにした。食事でもズワイガニ食べ放題を真っ先に提供。その結果「インバウンドでがっちりのホテル」を生んだ。
絶好調のホテルから突然お客が蒸発した。コロナの終息を待っていたのではいつになるのやら、そこで薛さんは決断、イオンバウンド向けから日本人客向けに宿を改造することだった。夕方チェックイン、翌日も早々に出発していくインバウンド客向けの宿を変えることは容易ではない。日本人・個人向けとなれば滞在時間が長くなる。部屋を広くするために2室を1室に、風呂を充実せねばと温泉を箱根から運び、貸切風呂のスタイルに、富士山の眺望が売りだから屋上テラスを人工芝化し360度のパノラマビューを手に入れた。広大な庭を散策できるようにと石を並べ、苔を張り、桜を植えた。ホテル外壁の汚れも高圧洗浄で奇麗にした。お客は来ないので社員自らがこれらの作業に汗を流した。
薛さんは言う「富士山麓での経営はいつの間にか15年を迎えました。この間、私がやってきたことは3つあります。1つは社員を育てること。おかげさまで「10年選手」も少なくなく、チーム一丸の結束力が
おもてなしにつながっています。2つ目は庭を育てること。迫力ある富士の絶景を楽しんでいただくには総合的なプロデュースが欠かせないと、丹念に手塩にかけて庭園を養って参りました。3つ目は、食材や土産物はなるべく地元産を取り入れるなど、地域を意識した経営です。」と、この強烈な逆境へ挑戦していく薛さんには敬服ほかない。
昨年11月には改装お披露目があった。そのスピードに驚いた。ウリの貸切風呂は明治、大正、昭和、平成、令和と各室に名が付けられ、特注の信楽焼きの陶器浴槽が各室に2つずつ備え付けられ富士山を望むことができる。眺望確保のために以前あった杉の林も切り開かれていた。部屋も畳が敷かれ和室に合うベッドが並んだ。アメニティも充実している。秋のゴーツーキャンペーンがスタート、これで飛び立てるかなと思いきや、コロナ蔓延で年明けて休業が続き、GW前から金土日のみの営業を再開したばかりだ。
そんな薛さんを応援しようと人集めを目論み、泊りの「小山町セミナー」を企画した。セミナーの内容は不屈の経営者の薛さん、劇的な変化を小山町に興した込山前町長を柱に、地域ビジネスに励む二人の友人を登壇者に選んだ。小山町時代の人脈は小生より年配の方々が多いが、ここ南足柄市に来てからは40代が多い。市内と言うよりお隣の小田原市、松田町、真鶴町で活躍する青年たちだ。そこで松田町にあるNPO法人アシガラパートナーズ代表の北村さん、そして、かれこれ10年ほど前から知合い会うたびに活躍度が増している伊豆市にいるNPO法人サプライズ代表の飯倉さんを加えた。彼らはNPOと言えども数千万円に売り上げがあり雇用もある地域ビジネスの経営者だ。
泊まった翌日は、変わりゆく小山町を込山前町長が案内し、小生は6年4か月間で携わった建築、公園そして橋をお見せすることにした。ランチは趣向を凝らして富士山五合目にお連れして、5月から6月上旬にだけ現れる幻の滝を案内してから、東富士山荘でキノコ膳を召し上がっていただこうというスペシャルメニューだ。ちなみに富士山はキノコの宝庫で松茸も採れる。(つづく)
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02:37
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2021年10月06日
令和3年2月: 南足柄市と富士フィルム(その4)




2000年以降はリーマンショックに急激な円高、東日本大震災と外部環境も相当な厳しさが次々に襲いかかる。
古森会長曰く「私はもう、何も恐れない。何が起きても対処してやるという気持ちでいる。
経営とは終わることのない戦の連続だ。」結果2000年売上1.4兆円の内写真関連が54%を占めていたものが、
2007年には2.8兆円18%になっている。巨艦といえる富士フィルムをここまで変えるとは凄すぎる。
一方で1960年代富士フィルムの十数倍もの売上を誇った巨大コダックは2012年に経営破綻した。
サクラカラーのコニカはミノルタと経営統合、コニカミノルタとして今ではオフィス複合機、産業用光学、
医療用画像診断システム事業に変わった。富士フィルムこそ「強いものではなく変わることのできる者が残る」典型と思う。
文中で特に気になったコラムがある。「PDCA」より「STPD(see think plan do )」
プランの前にもっとよく見て、
考えようと言うわけだ。しっかりとした計画を立てたら果断にチャレンジしてやり抜く、そして最後にsee
に立ち返ると言うものだ。
未知の領域に挑むためには必要なサイクルだと古森会長は説く。
私が関わっている市の体育センターから富士フィルム先進研究所が見える。そこにあるモニュメントには「叡智勇気創造希望」
という四つの言葉が刻み込まれている。「叡智に基づく真理の探求、勇気ある挑戦による新たな価値の創造、
そして切り拓かれる未来への希望」という思いが込められている。(おしまい)
※写真は富士フィルム先進研究所 中に入ってみたいものです。
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15:59
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2021年10月06日
令和3年2月: 南足柄市と富士フィルム(その3)



何をやったかの前に、本のカバーにある古森会長の写真を見ると相当に迫力がある。睨まれたらびびり上がりそうだ。
氏は1939年満州に生まれている。死に物狂いでの引き揚げ体験から、国が戦争に負けることの惨めさ、
負けることの悲惨さ悔しさから自分が真の実力をつけなくてはならないと考えるようになったと語っている。
そして東大、強い体を作らなければとアメフトに。世界文学全集も読破。まさにマッスルエリートだ。
こりゃ叶わないなと思わざるを得ない。胆力、知力、体力全て備えた氏が社長になったのが2000年、
まさに大転換点、正しい決断をし続けていったことが第二の創業を成し遂げた富士フィルムの今の姿であろう。
反対に身近では首長が変わって、ちょっとの間で羨望の眼差しで見られていた小山町が体たらくな様に堕ちた姿
を見ているからトップの差は怖い。では、何をされたかに話を戻そう。
フィルムの敵であるデジカメ開発にいち早く着手し、ファインピクス700を世に出し世界シェア30%を叩き出す。
今やデジカメはスマホに代わられ、その変化の早さを改めて感じずにはおられない。「勝てる事業ではなく勝ち続けら
れる事業を選ぶ。外部のコンサルの意見など信用するな自分達でかんがえろ」で最終的に選んだ事業領域はデジタル
イメージング、光学デバイス、高機能材料、ドキュメント、メディカルライフサイエンスと書かれているがいずれも
B to
B事業だからピンとこない。それよりも化粧品になぜとは皆が思うことではないか?写真フィルムと化粧品には
共通点が多いと言うのだ。フィルムの主な原料はゼラチン、つまりコラーゲンだ。人の皮膚も70%がコラーゲンで
構成されている。そして肌が老化するのは、酸化作用が働くからであり、写真が色褪せていくのも酸化作用が働く
からである。どんな物質を与えれば老化が防げるかのノウハウはお手のものだ。こうしてアンチエイジングの化粧品アスタリフトを生んでいる。
そして、子会社化した富山化学工業が産み出したコロナ感染治療薬のアビガンが注目された。2008年に買収し医薬品事業に参入し、
富士フィルムの技術と組み合わせれば新たな価値を生み出すとの判断からだ。新規事業に一から始めるのでは時間がかかりすぎる。
そこでM&Aなのである。シナジー効果を狙ってのことだ。(つづく)
※写真市内にある富士フィルム工場
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15:58
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2021年10月06日
令和3年2月: 南足柄市と富士フィルム(その2)

南足柄市に来る前に富士フィルムと関わることになるだろう、ついては会社の情報が必要だ。
てっとり早く知るには株主になろうかなと、とりあえず株主優待ももらえる300株を入手した。
次は世界一のフイルムメーカーのコダックは倒産したけど、医療品、化粧品に手を拡げ更に
ビックにした会長の古森重隆氏のことを知りたいと思った。前述の目論みも南足柄の現場で
決められるのかな、できれば直接交渉したい。でも天皇的存在の方へのアプローチは望み薄。
市長名で手紙と言う手もなくはない。いろいろ妄想しつつ手元にある氏の著書である「魂の経営」を手にした。
「車が売れなくなった自動車メーカーはどうなるのか。鉄が売れなくなった鉄鋼メーカーはどうすればいいのか。
我々は、まさにそうした事態、本業消失の危機に直面していた。」から文は始まる。
2000年にカラーフィルムの売上がピークを迎えた。この少し前からデジカメが急激に普及し始めていた。
その翌年からフィルム売上が年率20~30%で収縮、そして10年後には1/10以下にまで落ち込んだ。
かつて売上の6割、利益の2/3を占めていた。その市場が蒸発していく。
「この危機を打開し会社を救うためにどうすればいいのか。絶対に負けられない戦が、
私の全身全霊を懸けた魂の経営が始まったのだ。」これが本のタイトルだ。(つづく)
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15:57
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2021年10月06日
令和3年2月: 南足柄市と富士フィルム(その1)




令和3年冬、神奈川県南足柄市に引っ越し、勤務して早半年が経った。ここ南足柄市は富士フィルム発祥の地だ。
前任地の小山町は富士紡が誕生し、寒村がいきなり静岡県東部ナンバーワンの町になったと同じこと
がここ南足柄でも起こり企業城下町として発展を遂げた。小山町に富士紡はもはや無いけど、
南足柄にはまだ富士フィルムはある。しかし、本社はすでに東京に移転し研究所は隣の開成町に立地、
写真フィルムの製造拠点であったここは縮んできている。立派な社宅も社員寮も空き家、
工場にもかつての活気は見られなくなっている。
「南足柄市の創生にチャレンヂして欲しい」が、市長からのリクエストでもある。廃校及び、
草ぼうぼうになりがちな調整池の利用者をいずれも公募したところ手が上がり、廃校にはキャンプ、
エビの養殖事業をやりたいと、調整池はそばの栽培、ドローンの練習場として利用の提案があり具体化の交渉に入る。
また、最近空きフロアができた再開発ビルの活用にも地方創生交付金補助を入れて集客力のある公共施設を
公民連携で手掛けようと仕込んだばかりだ。
前述の富士フィルムの空き社宅にも手を付けたく構想中、これは茨城県境町を視察したときに学んだことを更に戦略的
にやりとげたく妄想中である。もし、できあがればいずれも相当に注目される事例になると思っている。(つづく)
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15:56
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2021年10月06日
由布院への旅(2020.11/21~23)その12








長女と次女と三人で泊まるには贅沢過ぎるが、こここしか空いていなかったので仕方なし。
人生一度ぐらいここで泊まると腹をくくった。
ベッドに横たわると腰窓から庭を眺めることができる。でも寝ながらテレビを見ることもしたい。
ヘッドボードに目をやると何やらスイッチがある。押すと腰窓前面に格納されたテレビが上がってきた。
寝室とは別にリビングも、坪庭を眺めながら掘りごたつで食事ができる部屋もある。
トイレは2カ所、当たり前のように露天・室内風呂もある。
街歩きから帰ってきた娘たちと夕食、21時からは談話室で恒例の蓄音機でのSPレコード鑑賞、
レコードリストがありリクエストにも応じてくれる。曲により竹針と鉄針を使い分ける。
ほぼ一時間のコンサートとなる。その後、天井桟敷に向かいウイスキーをちびりちびりとやって
部屋に帰ってきたのが23時、ひと風呂浴びて床に就いた。
翌朝起きてひと風呂、金鱗湖散策後に朝食、この日は長女がリモートで大学授業があるということ
で特別にチェックアウトの時間を延ばしてもらい12時に宿を発つことにした。
中谷健太郎さんご夫妻に見送ってもらい北九州空港に向かった。
道中、23年前に住んでいた山裾にあるアパート付近を散策し娘たちと思い出を語り合った。
どこそこで遊んだ話から、彼女らにとっての由布院での日々は冒険の連続だったことを改めて感じた。
由布院へのアクセスは大分空港が最も近いが減便中で時間帯悪く、次は福岡空港とすることがこれまで多かったが、
北九州空港はどうかとチェックしてみると車を走らせている時間にそれほどの差はない。
空港周辺の混雑差はないから、むしろこちらをお勧めしたい
。由布院に私の案内で行きたいというリクエストがある。コロナ開けたら企画しようと思っている。(おしまい)
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2021年10月06日
由布院への旅(2020.11/21~23)その11




学会の名は日本旅館が世界に誇れる・冠たる宿文化を体現して、そして発信することから由来しているとある。
「12のビジョン」の中身はさて?特別なこだわりを抜粋すると
・全てにおいて高品質を探求しお客様に喜びを与える
・個性豊かな建物 ・地域の文化の継承と保護と発展
・地域の生産者との関わりと消費
・日本の宿文化を世界に発信する役割が挙げられる。
高い志を持ち、常に顧客の安らぎを配り、伝統と先進と確信を図り、崇高な理念を持ち日々実践を続ける
スモールラグジュアリーな宿として13の旅館が名を連ねている。
最低でも1泊2食3万円以上の高級旅館群だろうなと中を見るとそうでもない。野沢温泉の住吉屋、
松本市の旅館すぎもとといった1万円台の宿もある。
今回泊まる本学会のメンバーである亀の井別荘は4万円からだある。
大正10年、別府観光の父油屋熊八の要人招待用別荘として創業した。
金鱗湖の畔、一万坪の自然林の中に14室の離れ6室の洋室を構え、談話室、大浴場がある。
これとは別にパブリックと称し誰でも利用できる茶房「天井桟敷」、バー「山猫」、
食事処「湯の岳庵」、売店「鍵屋」がある。京都の柊家に代表される伝統旅館とはとは異なる。
昭和50年代団体向け大型旅館が当時の宿屋のビジネスモデルだったときに、木造離れ、
日本庭園ではなく雑木、宿泊客でなくても入れる売店、喫茶、食事処といったしつらえで
高額な価格帯で打って出ていったのが、そのスタイルだ。(つづく)
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2021年10月06日
由布院への旅(2020.11/21~23)その10




話を亀の井別荘に戻す。宿名の通り別荘から始まり高度成長期には別府の大型旅館化の影に隠れ、
待てど暮らせどお客は来ない。当時日本は個人や家族で旅行に行く時代ではない、
職場が農協が団体バスで温泉ホテルに着き温泉入って宴会して、帰っていくスタイルが主流。
小生だって親に旅行なんて連れて行ってもらったことは無い。修学旅行が宿に泊まる初体験だった。
由布院の民宿に毛が生えた程度の宿に団体受け入れはそもそも無理だ。
1970年頃「別府様には叶いわせぬが、せめてなりたや天ケ瀬に」と言っていた由布院が、
今では「行ってみたい温泉地」の上位にランクされる常連になっている。なぜか?
これについては多くのところで書かれているのでネットでチェックしてくださればおわかりになるであろう。
亀の井別荘主の中谷健太郎さんがいなければ、こうはならなかっただろうということに異論を
挟む人はいないであろう。(つづく)
※写真は4年前2月に泊まった時の亀の井別荘
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15:04
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2021年10月06日
由布院への旅(2020.11/21~23)その9



わが娘たちは買い物がしたいようで、湯の坪街道の店の探訪を続けた。
小生はかつて建替えに知恵を絞った日の春旅館を久しぶりに訪問し、
ご機嫌伺いをした後に亀の井別荘に戻った。
亀の井別荘は別府観光の父「油屋熊八」の要人招待客用に設けた別荘が始まりだ。
温泉マークは氏が別府温泉のシンボルマークとして使ったのが始まりだ。
「山は冨士、海は瀬戸内、湯は別府」のキャッチコピーを考案し、これを書いた碑を
富士山頂をはじめ全国各地に立て廻った。ホテル建設はもとより、温泉とゴルフを
組み合わせたグルフ場の開設、日本初のバスガイドによる別府地獄めぐり、
これら全て1925~30年に掛けて手がけたこと。当時、相当にファンキーだし、
今の日本観光の先駆者に間違いない。先日、南足柄市で作成中の今後五年間の
観光基本計画を見せてもらった。うーん、全く面白くない!
「頑張ればできるワクワクする企画を盛り込みなさいよ」って返した。
アサヒビール工場があるんだから「南足柄ビール祭り」とかね。
今の世の状況では無理そうだけど、来年ぐらいには芽吹かせることぐらいね。
(つづく)
※写真は亀の井別荘そばにある金鱗湖
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15:04
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2021年10月06日
由布院への旅(2020.11/21~23)その8



インバウンドが無くなった今、空いているのかと思ったら大間違い。わんさか人が歩いている。
小生がいたころも人出は多かったが、それを上回る。店も増えている。質も上がっている。
栄枯盛衰、無くなったものの代表は由布院美術館だと小生は思っている。
象設計集団の富田玲子設計だった。平成3年に磯崎の駅舎とこの美術館を見ることが
由布院に来るきっかけとなった。もう30年も前のことだ。今はCOMICO ART MUSEUM
YUFUINが建っている。
今を時めく隈研吾のデザインだ。根津美術館の流れにある。
小山町に建つ足柄駅舎も当初のデザインは切妻と方形の組合せで、前述のデザインぽかったが、
突如富士山の裾野の一部をイメージさせる屋根の形に変わった。
わが娘たちは買い物がしたいようで、湯の坪街道の店の探訪を続けた。小生はかつて建替えに
知恵を絞った日の春旅館を久しぶりに訪問し、ご機嫌伺いをした後に亀の井別荘に戻った。
(つづく)
Posted by Qさん 大魔人 at
15:03
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